76.法性寺入道前関白太政大臣の歌:わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『76.法性寺入道前関白太政大臣の歌:わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもいにまがう おきつしらなみ

大海原へと漕ぎ出して見渡すと、空に浮かぶ雲と見間違ってしまうような沖の白波よ。

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[解説・注釈]

法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)は、関白・藤原忠実(ただざね)の子の藤原忠通(ただみち)のことである。後白河法皇が崇徳上皇(すとくじょうこう)を失脚させた『保元の乱(1156年)』では、崇徳上皇・藤原頼長(忠通の弟)を打ち破って、藤原氏の氏長者として平安京・朝廷に君臨することになった。

この歌は崇徳院主催の内裏歌合(だいりうたあわせ)で『海上遠望』というお題で詠まれた歌だが、詠まれた年月は保延元年(1135年)4月でまだ藤原忠通と崇徳院の政治的関係は悪いものにはなっていなかった。装飾的な過度な技巧性を排除したシンプルで力強い響きの歌だが、海の青さと波の白さ、雲の白さの『爽やかな色彩のコントラスト』が目に浮かんでくるような歌に仕上げられている。

親子兄弟でさえも政敵として打倒しなければならない『熾烈な権力闘争』の世界に生きていた藤原忠通だが、風流な詩歌の世界では『脱俗的・自然的な優美な世界の表現』に務めて鬱屈した気持ちや殺伐とした思いを発散していたのかもしれない。法性寺(後の東福寺)に邸宅を構えていた藤原忠通は、しばしばその寺院を訪問しては、『殺伐とした政治の世界』を忘れる一時を楽しむかのように、『風流・優美な自然や情景の美しさ』を率直に表現する歌を伸びやかに謳ったのである。

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