75.藤原基俊の歌:契りおきしさせもが露を命にて~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『75.藤原基俊の歌:契りおきしさせもが露を命にて~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

藤原基俊(ふじわらのもととし)

ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて あわれことしの あきもいぬめり

藤原忠通(ふじわらのただみち)様が我が子の選を約束してくださった、『私を頼りにしておきなさい』という一言だけを命綱のようにしているうちに、あぁ、今年の秋も空しく去っていくようだ。

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[解説・注釈]

藤原基俊(ふじわらのもととし,1060~1142)は、平安後期の歌人で、藤原道長の曾孫に当たり、右大臣俊家の子である。当時の優れた教養人であり、『万葉集』の次点(訓点)をつける仕事などを行い、古典に対する造詣が深かった。だが、藤原一族の中での人望・評価を得ることができず、その学識や家柄の高さの割には出世しなかった(従五位上左衛門佐までの昇進で終わった)。百人一首の撰者・藤原定家の父の藤原俊成に古今伝授の講義を行ったことでも知られる。

平安時代後期の歌壇では、『保守派』を代表する人物であり、『革新派』である源俊頼(みなもとのとしより)と歌の手法を巡って対立していた。この歌は、藤原基俊の子供である律師光覚(奈良興福寺の僧)が『維摩会』の講師に選ばれずに困っていたところ、父親の基俊が当時の有力者である藤原忠通(ただみち)に選ばれるように取り計らってくれとお願いしたのだが、去年に続いてその年の秋もまた選に漏れてしまい、基俊が安請け合いをした忠通に恨みごとを述べている歌なのである。

出典『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』の詞書には、『律師光覚(りつしこうがく)、維摩会(ゆいまえ)の講師の請を申しけるを、たびたび漏れにければ、法性寺入道前太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのだじょうだいじん)にうらみ申しけるを、しめぢが原のと侍りけれども、又その年も漏れにければよみてつかはしける』とある。

『しめぢが原の』というのは、清水観音の託宣歌の『なほたのめしめぢが原のさせも草われ世の中にあらむかぎりは(やはりに頼みにせよ。さしも草で身を焼くように苦しくても、私がこの世にある限りは頼みにして良い)』のことである。

撰者の藤原定家も自分の子の為家(ためいえ)の立身出世について腐心していたので、我が子の律師光覚が講師になれずにやきもきして恨みごとまで述べている藤原基俊の心中にどこか共感するものがあったのではないかとも考えられている。

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