90.殷富門院大輔の歌:見せばやな雄島の海人の袖だにも~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『90.殷富門院大輔の歌:見せばやな雄島の海人の袖だにも~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

見せばやな 雄島の海人の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず

殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)

みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかわらず

私の袖をお見せしたい、松島の雄島の漁師の袖さえも、濡れに濡れたとしても袖の色は変わらないのに、私の袖は血の涙で赤く染まってしまっています。

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[解説・注釈]

殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ,生没年不詳)は平安末期の歌人で藤原信成の娘である。後白河天皇の第1皇女・殷富門院亮子内親王(りょうしないしんのう)に仕えた人物で、鴨長明は著作『無名抄』の中で当世の和歌の名手としてこの殷富門院大輔の名前を上げている。和歌を非常に多く作ったことから、殷富門院大輔は『千首大輔』という渾名を付けられていたのだという。

この歌は源重之(みなもとのしげゆき)の歌『松島や 雄島の磯に あさりせし 海人の袖こそ かくは濡れしか』を本歌取りして詠まれた歌である。自分の着物の袖をあなたに見せたいという呼びかけから始まる歌で、松島の雄島の漁師の何度も濡れた袖でさえ色が変わらないのに、私の袖は悲しみの血の涙で真っ赤に染まっているということを訴えている。

平安時代には、『恋の悲しみの涙』は真っ赤な血の色をしているイメージで捉えられており、真っ赤な涙で染まった着物の袖というのは『私の悲しみ・つらさが具体化した物』なのである。目で見ることのできない『心』というものを、『着物の袖の真っ赤な色』に投影して見事に表現した歌であり、現代にあっても変わらない『叶わぬ恋のつらさ・苦しさ』が生き生きと伝わってくる感じがする。

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