88.皇嘉門院別当の歌:難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『88.皇嘉門院別当の歌:難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき

皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)

なにわえの あしのかりねの ひとよゆえ みをつくしてや こいわたるべき

難波江に伸びている蘆の刈り根の一節のように、たった一晩だけ仮初めの共寝をしたせいで、あの澪標(みおつくし)のように、この身を尽くす恋をし続けなければいけないのでしょうか。

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[解説・注釈]

皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう,生没年不詳)は平安末期の歌人で源俊隆(みなもとのとしたか)の娘とされている人物である。皇嘉門院別当は、藤原忠通の娘で崇徳天皇の皇后である皇嘉門院聖子(こうかもんいんのせいし)に仕えていた。

『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』に収められている歌で、その詞書には『摂政、右大臣の時の家の歌合に、旅宿に逢ふ恋といへるこころをよめる』とある。『旅宿に逢う恋』という歌題は、旅先での一夜の儚い恋や遊女の切ない恋のことであり、『難波江(大阪湾の入江一帯)』という地名は江口・神埼という当時の遊女の宿をイメージさせるものでもあった。蘆(あし)は当時の難波江の名物的な風景として知られていたもので、蘆というのはイネ科の多年草である。

この歌は『掛詞(かけことば)・縁語(えんご)』を多用した高度に技巧的な歌として知られるが、『かりね』は『刈り根』と『仮寝』の掛詞であり、『ひとよ』も『一節』と『一夜』の掛詞になっている。『みをつくし』というのも『澪標(水脈を示すために立てられた木の杭)』と『身を尽くし』の掛詞であり、恋ひわたるの『わたる』も『ずっと~する』と『海を渡る』の掛詞になっている。

『蘆・刈り根・節』『難波江・澪標・渡る』はそれぞれ縁語になっている。一晩限りの行きずりの儚い恋、将来のないその場限りの情熱的な恋の味わいを、見事な技巧と情感表現を用いて詠みあげた歌である。

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