優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。
小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『86.西行法師の歌:嘆けとて月やはものを思はする~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。
参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)
[和歌・読み方・現代語訳]
嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
西行法師(さいぎょうほうし)
なげけとて つきやはものを おもわする かこちがおなる わがなみだかな
嘆けと言って、月が私に悲しい物思いをさせるのだろうか。そういうわけではないのだろうが、まるで月のせいであるかのような顔をして、私の涙が溢れ出てくる。
[解説・注釈]
西行法師(さいぎょうほうし,1118-1190)は平安後期の歌人であり、西行と号する前の俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)という。西行は佐藤義清の時代には、鳥羽法皇に仕える『北面の武士』であり、武士として殺生を犯していた可能性もある珍しい平安時代の歌人である。
佐藤義清(後の西行)は裕福な家柄の生まれで、若い頃から仏教の思想・修行に深い関心を示しており、弱冠23歳という若さで出家して円位(えんい)となった。出家してすぐは円位と名乗っていたが、その後に西行という号に変えている。西行は『諸国遍歴の歌人』として知られ、日本各地を仏道修行を兼ねて行脚しながら自然の美を愛でるような歌を詠んだ。
出家した西行は、都の周辺から高野山・吉野地方などで庵を結び、修行をしながら様々な歌を詠んだ。諸国放浪の旅では、東北地方に二回、四国地方に一回の旅をしている。二回目の東北地方の旅は西行が69歳の時で当時としては相当な高齢であり、平家に焼き討ちされた東大寺再建のための『砂金勧進』が目的であった。東北地方に向かう途中の鶴岡八幡宮では鎌倉幕府の開府者となる源頼朝とも会っている。
西行は『新古今和歌集』に最多の94首が入撰している平安時代末期を代表する歌人の一人であり、家集に『山家集』がある。
願はくは 花の下にて 春死なむ その二月(きさらぎ)の 望月のころ(山家集の77)
上記の西行の歌は、満開の桜の花の下、釈迦が入滅した2月15日の満月の時期に自分も死にたいという西行の辞世の句のような歌としてよく知られているものである。
この歌は、王朝時代を象徴するような『恋歌』であり、恋しい女を思って涙するどこか弱々しい男の姿が思い浮かべられるような歌である。月と涙を人間に擬人化するような技巧が凝らされており、月の美しさと恋の儚さをこよなく愛したいかにも西行らしい歌に仕上げられている。恋しい思いに耐え切れず涙を流している自分に対して、『月が私に物思いをさせているのか、いや、そうではないだろう』というシニカルな問いかけをしている所もしみじみとしたユーモアのある情趣を醸している。
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