89.式子内親王の歌:玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『89.式子内親王の歌:玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする

式子内親王(しょくしないしんのう)

たまのおよ たえなばたえね ながらえば しのぶることの よわりもぞする

私の命よ、もし絶えるのならば絶えてほしい。生き長らえてしまうと、耐え忍んでいる心が弱ってしまい、隠しておくべき恋心が漏れてしまうかもしれないから。

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[解説・注釈]

式子内親王(しょくしないしんのう,1149‐1201)は平安末期・鎌倉初期の歌人で、後白河天皇の第3皇女である。式子内親王は、守覚法親王(しゅかくほっしんのう)や以仁王(もちひとおう)の姉に当たり、11歳から21歳までの約10年間にわたり賀茂斎院(かものさいいん)として神に仕えて過ごした。歌は藤原俊成・藤原定家に学んだとされ、俊成は式子内親王のために歌論書『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』を書いたという。

この歌は『忍ぶ恋』という題で詠まれた恋歌であり、式子内親王の実際の悲恋の経験に裏打ちされたものではないとされるが、『世の中に知られてはならない秘密の忍ぶ恋』の切なさや悲しさが見事に詠まれている。『玉の緒』というのは、元々は玉を貫く糸のことであり、真珠の首飾りの糸のようなものを意味していたが、玉(魂)を繋ぎ止めるという意味へと転じて『生命』を意味するようにもなった。

私の命よ、絶えるのであれば絶えてしまえと自分の生命に対して苛烈な命令を下している歌であるが、その背景には『世の人々に知られてはならない忍ぶ恋・恋心』がある。自分の生命よりも、社会的立場や体裁を守って死んだほうが良いとする式子内親王のこの歌は、平安時代末期の男女関係と世間体についての想像力を刺激してくれる潔さのようなものを感じる恋歌になっている。

式子内親王は八条院邸において八条院とその姫君に呪いを掛けた『呪詛事件』で濡れ衣を掛けられてしまい、それがきっかけとなって俗世を捨てて出家したのだという。

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