95.前大僧正慈円の歌:おほけなく憂き世の民におほふかな~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『95.前大僧正慈円の歌:おほけなく憂き世の民におほふかな~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣に すみ染めの袖

前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)

おおけなく うきよのたみに おおうかな わがたつそまに すみぞめのそで

畏れ多いことであるが、私は憂き世の民に、墨染の袖を覆いかけるよ。伝教大師・最澄が「我が立つ杣」と詠んだ比叡山延暦寺の僧侶として。

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[解説・注釈]

前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん,1155-1225)は、藤原氏の名家出身の天台座主(ざす)として知られる人物で、比叡山延暦寺のトップの僧侶となり当時の仏教界の頂点に立っていた。この歌は、慈円が天台座主に就任する前に詠まれたものなのだという。

慈円(じえん)は平安末期・鎌倉初期の僧侶・歌人・学者であり、関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)の子、関白・九条兼実(くじょうかねざね)の弟である。摂政・太政大臣となった藤原良経(九条兼実の子)の叔父にも当たる。第62世、第65世、第69世、第71世の天台座主を務めた当時の仏教界のリーダーであると同時に、理性的な知識人・文化人としても卓越した素養を持っていた。

主著に歴史書の『愚管抄(ぐかんしょう)』があり、鎌倉幕府成立につながっていく武家の台頭について率直に書き記しているが、慈円は武家・武士を『皇室の忠実な守護者』として肯定的に解釈しようとしていた。

この歌は、仏教信仰に基づく『衆生救済の悲願』が込められた歌である。憂き世で悩み苦しむ人々を救うために、墨染の法衣の袖で人々を覆ってあげたいという慈悲の心が伝わってくる。『おほけなく』は、畏れ多いとか身の程知らずにもといった意味合いである。『わが立つ杣』というのは、比叡山のことである。

比叡山延暦寺を開山した天台宗の祖である伝教大師・最澄(さいちょう)は、『新古今和歌集』に以下のような歌が掲載されている。

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏達わが立つ杣に冥加(みょうが)あらせたまへ

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