紫式部が平安時代中期(10世紀末頃)に書いた『源氏物語(げんじものがたり)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『源氏物語』は大勢の女性と逢瀬を重ねた貴族・光源氏を主人公に据え、平安王朝の宮廷内部における恋愛と栄華、文化、無常を情感豊かに書いた長編小説(全54帖)です。『源氏物語』の文章は、光源氏と紫の上に仕えた女房が『問わず語り』したものを、別の若い女房が記述編纂したという建前で書かれており、日本初の本格的な女流文学でもあります。
『源氏物語』の主役である光源氏は、嵯峨源氏の正一位河原左大臣・源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力であり、紫式部が書いた虚構(フィクション)の長編恋愛小説ですが、その内容には一条天皇の時代の宮廷事情が改変されて反映されている可能性が指摘されます。紫式部は一条天皇の皇后である中宮彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師として仕えたこと、『枕草子』の作者である清少納言と不仲であったらしいことが伝えられています。『源氏物語』の“夜いたう更けてなむ、事果てける。上達部おのおのあかれ、后、春宮帰らせ給ひぬれば、のどやかになりぬるに~”を、このページで解説しています。
参考文献
『源氏物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),玉上琢弥『源氏物語 全10巻』(角川ソフィア文庫),与謝野晶子『全訳・源氏物語 1~5』(角川文庫)
[古文・原文]
夜いたう更けてなむ、事果てける。上達部おのおのあかれ、后、春宮帰らせたまひぬれば、のどやかになりぬるに、月いと明うさし出でてをかしきを、源氏の君、酔ひ心地に、見過ぐしがたくおぼえ給ひければ、「上の人びともうち休みて、かやうに思ひかけぬほどに、もしさりぬべき隙もやある」と、藤壺わたりを、わりなう忍びてうかがひありけど、語らふべき戸口も鎖してければ、うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿(こきでん)の細殿に立ち寄り給へれば、三の口開きたり。
女御は、上の御局にやがて参う上り給ひにければ、人少ななるけはひなり。奥の枢戸(すうど)も開きて、人音もせず。「かやうにて、世の中のあやまちはするぞかし」と思ひて、やをら上りて覗き給ふ。人は皆寝たるべし。いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、
「朧月夜(おぼろづきよ)に似るものぞなき」
とうち誦(ず)じて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへ給ふ。女、恐ろしと思へるけしきにて、
[現代語訳]
夜もすっかり更けてから御宴(花宴)は終わりになった。上達部はそれぞれ退出し、中宮、春宮もお帰りになられたので、静かになった頃に、月がとても明るくさし出ていて美しいので、源氏の君、酔心地に、見過ごしがたくお思いになられたので、「殿上の宿直の人々も寝た、このように思いもかけない時に、もしや都合のよい機会(隙)もあるだろうか」と、藤壺の周辺を、どうしようもなくて人目を忍んであちこち窺って回ったが、手引きを頼んで語りかけるはずの戸口も閉まっているので、嘆いて、なおもこのままでは気が済まないと、弘徽殿の細殿にお立ち寄りになると、三の口が開いている。
女御は、上の御局にそのまま参上なさったので、人の少ない気配である。奥の枢戸も開いていて、人のいる音もしない。「このような無用心から、男女の過ちは起こるものだ」と思って、そっと上がってお覗きになられる。女房たちは皆寝ているのだろう。とても若々しく美しい声で、並の身分の人とは思えず、
「朧月夜に似るものはない」
と口ずさんで、こちらの方に来るではないか。とても嬉しくて、とっさに袖をお捉えになる。女は、恐ろしいと思っている様子で、
[古文・原文]
「あな、むくつけ。こは、誰そ」とのたまへど、「何か、疎ましき」とて、
「深き夜の あはれを知るも 入る月の おぼろけならぬ 契りとぞ思ふ」
とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、
「ここに、人」とのたまへど、「まろは、皆人に許されたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらむ。ただ、忍びてこそ」
とのたまふ声に、この君なりけりと聞き定めて、いささか慰めけり。わびしと思へるものから、情けなくこはごはしうは見えじ、と思へり。酔ひ心地や例ならざりけむ、許さむことは口惜しきに、女も若うたをやぎて、強き心も知らぬなるべし。
[現代語訳]
「あぁ、嫌ですわ。これは、誰ですか。」とおっしゃるが、「何がそんなに嫌なのですか。」と言って、
「情趣ある春の、夜更けのしみじみとした感じを知っておられるのも、沈んでいく月が朧げではないように、前世からの浅くない御縁があったのだろうと思います。」
と詠んで、そっと抱き下ろして、戸を閉めてしまった。意外な状況に驚きあきれている様子、とても親しみやすくてかわいらしい女である。恐怖に震えながら、
「ここに、人が」と言っているが、「私は、誰からも許されているので、人を呼び寄せても、何ということもありませんよ。ただ、静かにしていなさい。」
とおっしゃる声に、この君であったかと聞いて分かって、少し安心したのだった。情けないと思う一方で、男女の情趣を知らない強情な女とは見られまい、と思っている。酔い心地がいつもと違っていたからだろうか、何もしないのは残念であるし、女も若くなよやかで、強情な心もまだ持っていないのであろう。
[古文・原文]
らうたしと見たまふに、ほどなく明けゆけば、心あわたたし。女は、まして、さまざまに思ひ乱れたるけしきなり。
「なほ、名のりしたまへ。いかでか、聞こゆべき。かうてやみなむとは、さりとも思されじ」とのたまへば、
「憂き身世に やがて消えなば 尋ねても 草の原をば 問はじとや思ふ」と言ふさま、艶(つや)になまめきたり。
[現代語訳]
可愛らしいと御覧になっておられると、間もなく明るくなってきたので、心が慌ただしくなる。まして女は、(男以上に)いろいろと思い悩んでいる様子である。
「やはりお名前をおっしゃってください。どのようして、お手紙を差し上げられるでしょうか。こうして終わってしまうとは、お思いではないでしょう。」と源氏の君がおっしゃると、
「不幸な身のままで名前を明かさずこの世から消えてしまったら、野末の草原までは訪ねて来て下さらないのだろうと思います。」と歌を詠む様子、優美で艶めかしい。
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